2017.10.17
日本で初めて動力式精米機を作った男、佐竹利市(さたけ りいち)。当社の創業者です。幼い頃から神童と呼ばれ、13歳にして地租改正に伴う測量や地積計算を任されるなど、特に算術に長けた利発な子として村中にその評判が知れ渡っていました。
明治29年、33歳にして日本初の動力式精米機を発明。精米効率の向上と作業負担の軽減を図り、精米技術に革新をもたらしました。「もっと白くできないか」「もっときれいにならないか」「もっと効率よく精米できないか」と考え続け、精米機の開発に一生を捧げました。
その利市。さぞ美味しい白米を毎日食べていたと思いきや玄米を主食としていました。特に晩年は玄米を粉にし、湯をかけてペースト状にして食していました。幼少期に虚弱体質であった利市は、精米機の開発の傍ら独自の健康法を研究しました。内容は多岐にわたり、様々な実践法とその効果を明らかにしましたが、食事に関する記述の中で生菜食の1つとして玄米食を推奨しました。利市の実践は徹底しており、出張先でも玄米粉を携行し、旅館でもそれを食べていたという徹底ぶりでした。そのお陰か、すこぶる元気で開発に勤しみ95歳で天寿を全うしました。
ここで疑問に思われる方もおられるでしょう。「精米機の開発者が白米でなく玄米を勧めるとは合点がいかぬ」と。至極当然のご指摘です。これに対し利市は「私の健康法が(国民の間で)盛んになれば機械(精米機)は不要となり仕事は終わりを告げるのだ」と大笑いをしていたそうです。
精米機の開発は人々に美味しくきれいなご飯を提供しました。一方で、玄米の栄養素(健康成分)を捨ててしまった側面があります。利市は玄米を「完全食」と呼び、その豊富な栄養素と健康効果を認識していたのです。美味しさと栄養素の両立は常に当社の不文律として存在していました。これが、のちに、長男利彦による「胚芽米」の発明、孫の利子による「GABAライス」の発明へと受け継がれました。まさに、利市の玄米食への思いが連綿としてつながっていったのです。
なぜかって? それは玄米だけに「約束げんまい」だから...かも。